両得電鉄の路線網はなぜ広大なの??

両得電鉄の路線網は、複数の鉄道が合併や併合を繰り返して形成されてきた。特に1940年代に行われた陸上交通事業調整法による鉄道再編や、2000年代頃に行われた仙豊鉄道、来戸急行電鉄との合併は規模が大きいものだった。

得原鉄道との合併

1968年に行われた得原鉄道との合併は、戦後の両得電鉄としては初の合併となった。

当時すでに両得電鉄と得原鉄道は強い協力関係にあり、特に上谷~遠山原間の特急列車は、それぞれが同じ形式の車両を導入して乗り入れを行っていた。また、それ以外の電車も定期的に直通乗り入れが行われていた他、不動産開発でも協力をしていた。

当時は遠山原高速線計画が進行中であり、高速線開通後も強い競争力を保つため、さらに、より強い連携を行うために得原鉄道側から合併の提案があった。両得電鉄としても得原鉄道との連携強化は課題の一つであり、これを承諾。そして1968年に合併が行われ、得原鉄道は「得原事業部(2013年に支社化)」となった。

仙豊鉄道との合併

来戸急行電鉄との合併

2000年代前半まで比較的安定的な経営を行っていた来戸急行電鉄だったが、2003年の証券取引法違反事件、また利益供与事件などで混乱が生じ、上場が廃止されてしまった。この際、来戸急行建設が保有していた来戸急行電鉄株が両得電鉄に売却される。もともと両得電鉄は来戸急行電鉄の株を保有していたが、このことがきっかけでグループ再編に両得電鉄がかかわることとなった。仙豊鉄道→仙豊事業部を立て直した手腕も評価されたのである。

再編計画は2005年から2006年にかけて行われ、この際に来戸急行電鉄は両得電鉄の子会社となった。この時点では両得電鉄との合併が予定されていなかったが、このころから国と津喜県が鉄道再編に力を入れ始めた。これは当時の津喜県知事などがある国の首都を視察した際、バスや鉄道が再編され共通運賃で乗車できる制度があることを知り、それを日本でも導入しようとしたからである。

来戸急行電鉄との合併は両得電鉄の本意ではなかったものの、津喜県の主導により進められ、2010年に行われた。途中で津喜県知事が変わったが、この計画に関しては大部分が進行していたこともあり、中止されずに行われたのである。

津喜県知事はなぜ鉄道再編を進めようとしたか

2006年当時の津喜県知事が進めようとしていた鉄道網再編。これは鉄道やバス会社を一つにまとめることにより、共通運賃、制度での乗車を可能とするものである。ちなみに、県知事が視察した国の首都においては、異なる事業者間でも共通の運賃制度で乗車できるようになっているが、国内でそれをそのまま導入するのは難しいと判断したようだ。


※当ページの内容はフィクションです。

当ページ最終更新日 2019年05月03日

当ページ公開開始日 2017年01月13日