津電線の歴史

「津喜電」ができるまで

 津電線は201612月まで「津喜電鉄」の路線だった。津喜電鉄が開業したのは、1947年のことであり、大戦後間もない時期である。なぜこのような時期に開業したのかは、津喜電鉄ができた経緯を知れば理解していただけるだろう。

 「津喜電鉄」は、下得平野に敷設されていた旧陸軍の鉄道演習線跡を活用するために誕生した。実は戦前から使用されていた旧陸軍の鉄道演習線は、当時から旅客線への転用をするべきとの意見が多かったのである。中にはこっそり演習線にトロッコを走らせていた人がいたという話や、正確な資料がないが無料で旅客輸送を行っていたという話もあり、旅客線化という「夢」が存在していた。

 しかし、軍事上重要な施設であったことから、旅客線化が認められることはなかった。とはいえ、一時期鉄道演習線を移転するという話があり、その際に旅客線に転用するという計画が存在していたのは確かである。だが残念なことに、永京から近いという立地や、沿線に軍事施設が点在していたという事情から移転は中止されてしまう。当然、移転が前提の旅客線化話は無かったことになった。

 皮肉にも「敗戦」によって旅客線化話が進むこととなったが、旅客線化は一筋縄ではいかない。大きな壁となったのは、「進駐軍」の存在だった。津喜電鉄は軍事目的で使用された設備を転用して計画されたがゆえに、「軍事設備を復活させるのはけしからん」とされ、なかなかOKがでなかったのである。しかし、津喜電鉄や両得電鉄などが必死に説得することでこの問題は解決した。

 

開業から繁栄まで

 なんとか進駐軍のOKをもらった津喜電鉄。しかし、旅客線化を計画していたのは、津喜電鉄だけではなかった。津喜県鉄道界の大物、「両得電鉄(大両得)」も「旧陸軍鉄道演習線跡」という獲物を狙っていたのだ。なんといっても、当時は城得電気軌道(現 城得電鉄)なども両得電鉄の一員であったわけであり、かつ路線のエリアも両得電鉄のエリアと一致していた。両社併願の結果、国営鉄道幕沼駅より西側が両得電鉄に、そして東側が津喜電鉄に払い下げられ、どちらも1947年に開業して現在に至っている。

 さて、津喜電鉄は地元住民と大手不動産屋により設立された。そのため古くから「地元の鉄道」という意識が強く、かつ不動産屋が親会社だったので、不動産開発が得意だった。幕沼や中沼、街道宿には商業施設を建設し、それ以外のエリアには一戸建てを建設。沿線には系列のスーパーを進出させ「衣食住」すべてを津喜電鉄系列の交通機関や施設で賄えるようにした。

 閑話休題。1947年に幕沼~中沼、1948年に中沼~街道宿間が開業した津喜電鉄だが、開業時の車両は皮肉にも払下げ時のライバル、両得電鉄で活躍していた中古電車だった。というのは、戦後間もない上、資金もなかった津喜電鉄にそれ以外の選択肢が無かったことを意味している。両得電鉄も余裕がなかった時期ではあるが、大型電車の払下げでねん出された中古車両が存在し、その車両が津喜電鉄にやってきたというわけだ。

 1950年代ごろまでは沿線の開発がさほど進まず、のどかな田園風景が幕沼を出発して間もないあたりですでに見ることができた。しかし、1960年代になると、大型団地が建設されたり、デベロッパーによる開発が進んだりで乗客が急増。開業以来ほとんど両得電鉄の中古車両で車両を賄ってきた津喜電鉄は混雑対策に追われることとなる。そこで、混雑対策のため新たな車両「1000系」が開発された。

 「1000系」は1964年に登場。将来を見据え、当時としてはゆとりを持たせた長い20m車体と片側4ヶ所に設けられた扉により、スムーズな乗降による停車時間短縮を実現した。基本的なスペックは両得電鉄の50(後に登場)とほぼ変わらない。電動車比率1:1という経済的な設計でもあることから、1000系は1978年まで導入されることとなる。

 1000系が導入された時期は、乗車客数が右肩上がりで急増していった時期だ。ベビーブームや沿線への人口流入により混雑は悪化したものの、毎年のように増発が繰り返され、1000系が導入されていく黄金期だった。

 

ライバルの出現

 津喜電鉄は幕沼~街道宿間の輸送をほぼ独占していた。自動車というライバルが存在したとはいえ、鉄道においてのライバルは、しいていうなら国営鉄道両武本線(当時)ぐらいで、存在しなかった。しかし、1978年に強力なライバルが出現することとなる。

 1978年に出現した強力なライバル…… それは「津喜急行電鉄」である。津喜急行電鉄は、当時整備が進められていた両武高速線を走らせる際に発生する騒音への見返りとして、利便性を高めるために整備された通勤新線である。国営鉄道による運営が予定されていたが、財政難や両得電鉄ベイコネクト線(同年津喜市内一部区間が開通したばかり)に乗り入れるなどの計画があったため、「津喜急行電鉄」として開通することとなった。

 津喜急行電鉄の最大の特徴は、高速線計画地沿いに整備された路線であることに由来する線形の良さだった。線形が良いということは、直線区間が多いという事であり、速度制限が設けられた区間が少ないという事でもある。そのため、列車の平均的な速度は現在も高く、津喜市中心部より北側の開発を加速させた存在であるわけだ。

 津喜急行電鉄は、第一次開業時から永京都心へ直通乗り入れを行っている。開業当時は両得本線の線路容量が足りないため直通本数は少なかったが、1991年の浜茄子駅延伸以降多くの列車が永京都心へ直通するようになった。「永京都心へ直通」は、永京へのアクセスを両武本線、津喜へのアクセスを両武本線や両得電鉄に依存している津喜電鉄と比較して大きなメリットとなった。

 だが、津喜電鉄は津喜急行電鉄に対し協力体制をとり、ともに共存する道を選ぶ。中沼~街道宿間の廃止を受け入れ、この区間に関しては津喜急行電鉄に乗り入れるという形態にすることを決定したのだ。これは津喜電鉄お得意の「不動産開発」を優先させた結果である。事実、津喜電鉄は津喜急行電鉄沿線で不動産開発を進め大成功している。「他社線も不動産事業を円滑に進めるため活用する」という方針に転換したのもこの頃だった。

 

増発

 中沼~街道宿間の廃止と、津喜急行電鉄の開業により乗客は減少したが、幕沼~作新間では利用客数が増加していた。そこで増発を行うこととなり、電機メーカーの協力を得て1986年にVVVFインバータ制御車2000系が登場した。

 2000系はドア配置を1000系と同じにしたが、塗装を紺色のデザインに変更することにより津喜電鉄のイメージチェンジを図った。1000系も同時期に同じ塗装に塗り替えられている。

 2000系は好評だったが、当時津喜電鉄は不動産開発を最優先していたことと、1000系の置き換えを行わないことから少数派となった。

 

効率化と「脱」効率化

 1990年代になると、景気が悪化し津喜電鉄は大打撃を受けた。特に不動産開発事業が不調であり、その影響で鉄道事業の人員削減と効率化を進めることになってしまう。

 この際行われた減便では、1000系の一部が廃車となった一方、減便に対するお詫びとして2000系が1編成増備されている。

 効率化は2000年代に入るとさらに進められ、一部駅の無人化、自動改札機の一部削減、日中時間帯のワンマン運転など批判されつつも行われた。

 しかし、2008年以降方針転換で一部駅を再び終日有人化したり、日中時間帯であっても一部列車に車掌が乗務するようにしたりするなど、「脱」効率化が進められることとなった。

 「脱」効率化の象徴といえば、2010年に登場した3000系電車だろう。新型車両の増備を長い間行わず、2010年時点でいまだに1960年代に製造された1000系が活躍していた津電線の、車両更新を行うために登場した。

 基本仕様はコストダウンと当時すでに計画されていた両得電鉄への統合に備え、両得電鉄1030番台とほぼ同じにしている。ただしアルミ車体であり紺色の塗装をしている点は両得10系と異なっており、両得電鉄10200番台となった今も「独自仕様」は残っている。

 3000系は上記の通り紺色の塗装をしているが、これをあえて無塗装としなかったのには理由がある。それは「ブランド」の確立を行うためだった。銀色の電車が中心の両得電鉄、NTRに対し、紺色の塗装をした津喜電鉄の車両は「個性的」と評されることが多い。また、人によっては「おしゃれ」と思ってくれるかもしれない。そのような思いがあり紺色の塗装を施したのだと、津喜電鉄(当時)の人は語ってくれた。

 ただ、両得電鉄となり「10200番台」に車両形式が変更された今となっては、仁戸崎線のローカル運用に転用された編成が1編成だけ存在している。「津喜電鉄だけのオンリーワン」ではなくなってしまったのだった。

 

両得電鉄への統合

 津喜電鉄は津喜急行電鉄よりも数カ月早い201612月に両得電鉄へ統合された。統合と同時に2000系は「80200番台」、3000系は「10200番台」に改番され両得電鉄の一員となっている。

 両得電鉄への統合といっても、変更されたのは駅の案内類ぐらいで本数は全く変わっていない。ただし全列車に車掌が乗務するようになった。

 両得電鉄への統合に対しては、最初抵抗があったが次第に抵抗が薄れていき、最終的に積極的に統合を推進するようになった。これは津喜電鉄沿線の高齢化が進んでおり、両得電鉄などの強力なライバルに対して都心アクセス面で太刀打ちできないという状況であることが関係している。両得電鉄という強力な相手と一体になれば、様々な面で有利になると判断されたのだ。反対していた社員も給料が上がり喜んだという噂がある。


※当ページの内容はフィクションです

当ページ最終更新日 2018年1月13日

当ページ開設日 2017年7月6日