60系

車両画像

通勤型車両化改造後

デビュー時の姿

特急車両として登場

 1978年に開港した新永京国際空港(当時。富街空港)。この空港へアクセスする鉄道は、当時計画されていた富街高速線、そして補助的役割を果たす両武本線の支線の2路線を原則とし、場合により両得電鉄を活用するという計画が立てられていた。つまり、両得電鉄は空港アクセス鉄道の「本命」ではなかった。

 とはいえ、沿線に国際空港ができるという話を両得電鉄が無視するわけがない。両得では富街高速線が開通しても運行本数と停車駅、運賃で十分対抗できる特急を計画した。それが「翔」であるといわけだ。

 「翔」は速度面で到底高速線に太刀打ちできない。だから上記の3つを対抗策として打ち出したわけだが、とはいえ速く空港へアクセスできる列車であったほうがよいのは、誰もが認めることだった。そこで同じ速度を保ち続けることが可能な「定速制御(クルーズコントロールのようなもの)」を採用することが決まる。

 さて、「定速制御」を採用するためには、60系が登場した1972年当時最新技術だった「界磁チョッパ制御」を採用するのが適していると電機メーカーから提案されたわけだが、この「界磁チョッパ制御」は両得電鉄が採用したことのない技術だった。この新技術の採用に対し、「看板車両である特急に、実績が少ない新技術を搭載するのはいかがなものか」という意見や、界磁チョッパ制御では構造が複雑な複巻電動機を使用することから、整備部門からの反対意見があった。

 しかし、最終的に界磁チョッパ制御が採用されたのは、最高速度200km/h以上の高速線に対する「恐怖・不安」が強かったからだとされる。富街高速線だけでなく、後に規模が縮小され「急行線」として両得特急の強いライバルとなる「両武高速線」も計画中で、「新技術を積極的に採用しなければ、両得の特急は壊滅的な状況となる」という危機感があったわけだ。

 このような経緯で当時「部品共通化」を推し進めていた両得電鉄としては異例の「新技術を採用した特急車両」として登場した60系。整備部門からの評判はとても悪かったが、運転士など乗務員からの評判は良く、最も肝心な旅客にも高い評価をいただいた。

 

壁があってこその夢

 60系が界磁チョッパ制御などの新技術を採用できたのは、「高速線の脅威」という「壁」があったからである。しかし、またしても「壁」が60系の前に立ちはだかる。それは「富街空港への反対運動」だ。

 新永京国際空港(当時)周辺はのどかな田園風景が広がっていた。聞こえてくるのは風の音と鳥の鳴き声。そしてたまに電車の音ぐらいだったわけだ。

しかし、そこに飛行場ができると、どうしても大きな飛行機のエンジン音が周囲にとどろく。当時から空港周辺の騒音は問題となっており、新しい空港計画が発表されるたびに反対運動が起きた。新永京国際空港も例外ではなく、次第に過激化した反対運動により60系の一部車両が被害を受けてしまう。幸い軽い被害であり、すぐに車両は復旧された。だが、せっかくお金をかけて建設した富街空港線の建設費用が回収できず、一時的に両得電鉄は経営困難になってしまう。

60系は「翔」の運行を開港まで待たなければならず、シルバーの塗装で「翔」専用車両であることを大々的にアピールしながら、特急「なはら」や「とおやまはら」など、赤い特急が活躍する列車に導入された。この処置は一時的なものではあったが、当初からこれらの列車に60系を投入することは決まっており、実質的に計画が前倒しされたというわけである。

「なはら」「とおやまはら」に導入された60系は、荷物置き場など空港に行かない列車に似合わない設備が違和感を覚えさせたとはいえ おおむね 好評であり、1978年に新永京国際空港が開港すると「なはら」「とおやまはら」にも60系が導入された。

「なはら」「とおやまはら」に導入された60系は、「50番台」として区別され、走行機器・性能は同じでありつつも荷物置き場など不要な設備を廃止し、車体の塗装は赤に白帯の伝統的なスタイルを守った。一方、1980年以降に導入された編成はデザインが変更され、角ばったものとなった。

1980年には50番台の一部編成が増結された。従来4両編成だったのを6両編成とし乗客の増加に対応するためである。翌年には0番台の一部編成が6両編成から8両編成となった。

 

「特急」から「通勤」へ

 1990年から導入された90系は、当形式を次々と置き換えていった。1993年に60系は「翔」から引退し、2001年には1978年以前に導入された車両が両得電鉄から引退した。とはいえ、車両はそれほど劣化していなかった。一部は団体輸送連合に譲渡され臨時列車用として活躍したほか、床下機器を新しい通勤電車用車体と組み合わせた車両もデビューしている。

 60系通勤車両改造計画の背景には、当時の両得電鉄が車両不足に悩まされていたという事情がある。というのも、ベイコネクトが1991年に永京環状線浜茄子駅に接続したので、大幅な増発をして利用客の増加に対応しなければならなかったのだ。まだまだ使える走行機器、それが界磁チョッパ制御車の機器であっても、ぜひとも流用してコストダウンしたい状況だったわけだ。

 通勤車両改造計画では、「現在の車体を改造する」というA案と、「新しい車体に乗せ換える」B案が提案され、検討の結果改造難易度とメンテナンス性を考えB案が採用された。この際、鋼鉄車体ではメンテナンス面で将来的に損すると判断されたため、80系0番台とほぼ同じ構造のステンレス車体に乗せ換えられることとなった。

 通勤電車化改造車は1991年にデビューした。この時デビューしたのは60-801Fと60-802Fの2本。8両編成であり、2編成ともベイコネクトに導入された。その後1992年~1994年、1997年~2003年に数本が通勤電車化されているが、1997年以降に改造された車両の車体は80系50番台に準じたものとなった。なお、通勤電車化された編成は「800番台」として区別されている。

 2008年からは遠山原特急にRE系が導入され、1980年以降に導入された角ばったデザインの後期型も引退し始めた。後期型も車体があまり劣化しておらず、その一部は団体輸送連合に譲渡されている。一方で、初期車で行われた通勤電車化改造は行われていない。これは走行機器を流用するより、完全新製の新車を導入したほうが総合的に良いと判断されたからだ。後期型は2013年に引退した。

 

更新工事

 少ない予算の中、できるだけ多くの通勤電車を導入するために登場した800番台だったが、走行機器は界磁チョッパ制御のままで、走行特性も他の通勤電車と異なっていた。特に時速45km/hでの回生失効は、運転士に不評だった。そこで、走行特性の共通化とメンテナンス性向上を目指し、2005年から走行機器の更新工事が行われることになった。

 800番台の更新工事は「新型車両と比べてそん色ないレベルにする」という方針で行われている。まず制御方式を界磁チョッパ制御からIGBT素子VVVFインバータ制御に変更。これに伴い、モーターを複巻整流子電動機からかご形三相誘導電動機に変更している。この際、VVVFインバータ装置やモーターなどの部品は10系0番台と同じものを採用したことにより、10系と同じ走行性能とすることができた。

 更新工事では走行機器だけでなく、車両モニタ装置(RIMS)の搭載も行われている。800番台には車両モニタ装置が搭載されていなかったため、この装置の搭載によりメンテナンス効率を向上させることができた。車両モニタ装置の搭載と同時に、運行情報などを受信して車内LEDに表示できる装置も設置。運行情報がある際に表示できるようになっている。

 1994年までに通勤電車化された車両は2005年と2006年に更新されたが、2007年~2010年の間には1997年~2003年に通勤電車化された車両が更新された。2007年以降に更新された車両は、VVVFインバータ装置を10系100番台に準じたものに変更している。一方、モーターは10系0番台と同じものが採用されており、部品を極力統一できるように配慮している。


※このページの内容はフィクションです。

当ページ最終更新日 2018年06月17日