津喜高速市電の歴史

始まりは戦後復興計画

1945年7月の空襲で大きな被害を受けた津喜市。戦争が終わると海外の都市を参考に復興計画が検討された。復興計画には、後に現在の津喜駅となる「津喜総合駅」や津喜大通り、ところどころに設けられた公園などが盛り込まれており、津喜高速市電計画の前身となる「津喜高架市電」の計画も盛り込まれていた。

「津喜高架市電」は、運行上の障害となっていた両得電鉄との平面交差や、道路を横断する歩行者などとの接触事故を防ぐことを目的に、当時すでに開業していた津喜市電の路線網を一部高架化する計画だった。だが、他にも目的があったようだ。

1950年1月13日の津喜日報には、津喜市長のインタビュー記事が掲載されていた。その内容を一部引用すると「市電は、将来的に来たるモータリゼーションに対応できないでしょうから、市電を高架化し道路と分離することにより、恒久(こうきゅう)的に円滑な輸送ができるようにするのが、津喜高架市電の最大の目的です」と書かれている。

国内でモータリゼーションが進むのは、1964年頃からであり、津喜市ではそれより15年ほど前からモータリゼーションの進行を予測していたこととなる。なぜ早期にモータリゼーションを予測できたかというと、海外の事例を参考にしたからだ。海外では1920年頃にモータリゼーションが進行し始めたところもあり、「経済が豊かになれば、モータリゼーションも進行するでしょう」(1950年1月13日津喜日報より)という発言が残っているように、津喜市の戦後復興計画はモータリゼーション時代の到来を前提とした計画だったのである。

今でこそ早期からモータリゼーションを予測した復興計画は評価されているが、当時の津喜市は予算がなかった。当初の復興計画では予算確保が非常に困難だったため、1952年の時点で一部の計画が中止されている。津喜高架市電も例外ではなく、当初中心部北部にも計画されていた路線の整備が見送られた。

本格的な検討の開始

それでも高架市電1号線津喜(現東津喜)~三戸名間の計画は中止されず、いよいよ具体的な検討が始まる。高架市電は原則道路上に建設することがすでに決まっていた。しかし、車両規格はNTRなどと同じ長さ20m、幅2.8mの車両とするか、長さ14m、幅2.5mで集電方式が第三軌条方式の車両とするかが決まっていなかった。

20m派の意見は「車両の長さを20mにすると、路面電車と同じルートで計画されている高架市電1号線の一部カーブを曲がることができなくなる。だが津鐘電鉄との乗り入れを行う場合、将来的なことを考えるとルート変更してまでも長さ20mの電車が走ることができるようにするべき。理由は乗客の増加に対応できない可能性があるから」というもの。

一方14m派の意見は「ルート変更は現実的ではない。もし今後利用客が増えたらならば、増発で対応すればよい」というものだった。

結局、予算の都合もあり車体については後者の長さ14m、幅2.5mで集電方式は第三軌条とすることが決まった。第三軌条方式が選ばれた理由としては、景観面での理由とモデルにした路線が第三軌条方式だったからという理由がある。

同時に津鐘電鉄への直通乗り入れも行われることが決まり、津鐘電鉄では同じ規格の車体として、架線集電にも第三軌条方式の集電にも対応した電車が導入された。ただ、すでに懸念されていた「将来的な乗客の増加に対応できない」件は後に現実のものとなってしまう。

1956年から建設工事が始まり、第一期区間となる津喜(現東津喜)~古御苑間3.3kmが「津喜高速市電」として1958年にめでたく開通する。この頃、中心部では車がちらほらと走るようになり、高架市電改め高速市電の延伸慎重派も、しだいに延伸の必要性を認めるようになる。開通と同時に津鐘電鉄との直通乗り入れも開始される。

その後、1960年に古御苑~三戸名間が開通し、当初計画されたすべての区間が開通した。三戸名~鹿居間の延伸も計画され、1965年に開通。この頃にはモータリゼーションが進行し始めており、高架線として道路混雑の影響を受けないようにした高速市電の有用性が広く知られることとなる。

改良を進める

津喜高速市電では、1979年から発車ベルを一部の駅に設置していた。しかし高速市電1号線では接近放送装置の設置が行われておらず、「いきなり電車が来るから危ないじゃないか」という意見があった。そこで、1988年度に接近放送装置が設置されていなかった駅すべてに接近放送装置を設置。同時に列車接近案内表示機を設置した。。

1994年には津喜みなと鉄道が開通し、その影響で津鐘電鉄との直通乗り入れを廃止した。1993年時点では津鐘電鉄線内からの利用客が少なく、ラッシュ時に行われた東津喜駅での連結・切り離し(5⇔10両)は手間がかかっていたため、効率化と利用実態に合わせた運行形態としたのが廃止の理由である。

1995年には1200形の増備が再開される。この増備は増発を目的としたものではなく、登場から40年が経過しようとしていた1000形の置き換えを目的としたものだ。この編成は基本設計を1983年導入車と同じとしながらも、前面デザインを変更し車いすスペースを確保した。

また、自動放送装置を設置しており、車掌が乗務員室内に設けられたボタンを押すことにより放送が流れる。東津喜・津喜中央・三戸名・鹿居・坂月・めいだの各駅では、英語放送にも対応。2005年までは一部駅で放送広告を流していたこともあった。

1200形の増備は1999年で終了。老朽化が進んでいた1000形と1100形の初期車が置き換えられたが、依然として吊りかけ駆動車両である1000形が残っていた。2003年度には新型車両への置き換えが計画されるが、津喜市は財政難であるため置き換え計画は延期された。

一方で1100形は更新工事を行うこととなった。2004年度から2006年度まで数編成を対象に行われた更新工事では、塗装の変更、車いすスペースの確保が行われたが、2007年度より1300形を導入することが決まり2006年度で工事は中止された。

 2007年度から導入された1300形は、津喜デザイン事務所による津喜高速市電イメージチェンジプロジェクトの一環で導入された。塗装は1000形登場当初の銀色一色を受け継ぎ、ドア窓は下の方にも設けられ眺望性が良くなった。走行機器にはVVVFインバータ制御装置を採用し、消費電力が減少している。一方で、「抵抗制御の1200形よりも少しうるさいような……」という意見もあり、VVVFインバータ制御の「音」に対する課題が残った。

1300形は2011年度までの4年間で1100形をすべて置き換える予定だったが、若葉の森線の計画が発表され、導入は中止された。


※当ページの内容はフィクションです。

当ページ最終更新日 2019年01月12日

当ページ公開開始日 2019年01月12日