津喜市

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津喜市の区

・中央区

・若葉区

・稲木区

・美浜区

・検見浜区

・緑区

・幕沼区(2008年合併)

・街道宿区(2006年合併)

津喜市の人口推移

2020年 310万人

2015年 282万人

2010年 265万人(幕沼・街道宿合併後)

2005年 215万人

2000年 200万人

1995年 195万人

1990年 185万人

1980年 160万人

1975年 140万人

1970年 90万人(政令指定都市移行)

1965年 65万人

1960年 40万人

1955年 30万人

1950年 20万人

1970年頃の津喜市

 この頃の津喜市は、政令指定都市への移行や百貨店のちきり津喜店の開店など明るい話題が多かったですが、急増する人口に対してインフラの整備が追いついていないことが問題となっていました。

 特に人口が増加した地域は、両得本線(当時)の都駅-鹿島川駅間や、津鐘電鉄の東津喜駅-西泉駅間の沿線でした。この付近を通る「奈原街道」や「光鐘街道」などの幹線道路は、そのほとんどが片側1車線で幅も狭く、いち早い拡幅やバイパスの建設が急務となっていました。

 公共交通においては、渋滞で定時運行が困難となっていた路線バスの代替として、津喜高架市電の延伸・新路線建設や地下鉄、新交通システムの導入が検討されていました。このうち、費用面や騒音対策などを考慮した結果「懸垂式モノレール」として建設されることが決まり、これが後に「津喜都市モノレール(津喜区間)」として開業することになります。

 一方で県の玄関口でもある津喜駅周辺には、まだ開発の余地が残されていました。当時は両得電鉄の津喜中央駅周辺が街の中心地であり、津喜駅はその建設経緯もあって「街外れ」の場所にあったのです。

 その津喜駅周辺の再開発を行う動きが、1970年代に入って本格化しました。1968年には永神高速線(当時は永京駅-八田山駅間)が開業し、津喜駅の南側に地下2面2線が設けられました。この地下駅周辺の南側エリアを中心に、オフィスビルや商業施設を建設する計画が立てられ、後に「ちきり津喜店」など多くのビルが建設されました。

幻の津喜市営地下鉄計画

 1960年代の津喜市では、人口が5年間で25万人以上も増加し、1970年代までには100万人都市になるだろうと予測されていました。すでに渋滞が問題となっており、開発の進んでいない地域の開発促進と、道路渋滞解消を目的として地下鉄が計画されました。

 1968年にまとめられた「津喜市営地下鉄計画」では、臨海部(現在の海浜検見浜駅付近)から津喜駅を経由し、大宮台駅方面へ至る路線が計画され、開業後は6両編成の電車を5分間隔で走らせる予定でした。

 後に他路線の整備状況を踏まえ、臨海部-津喜駅間に関しては 両得電鉄の新線(後のベイコネクト線)に乗り入れ、津喜駅からは県庁前、星久喜、西大宮、大宮台の各駅を整備する計画になりました。終点の大宮台駅からは、光鐘電鉄の西泉駅または国鉄外郷線の権田駅方面へ伸ばすことも考えられましたが、これは様子を見て後から整備することになりました。

 1975年からは一部で用地買収が行われ、直通運転を行う両得電鉄との協議も開始されました。この段階で起点が津喜中央駅に変更されたほか、星久喜付近には「地下鉄建設予定地」の看板が設置され、1985年に開業することになっていました。

 しかし、一部区間で用地買収が進まなかったことや、道路整備及びモノレール建設を優先したことによる予算不足もあって、1982年度には計画が一時凍結されることになります。

 「地下鉄はいらない」として計画凍結を喜ぶ声もあった一方、地下鉄が出来る前提で星久喜など沿線に移り住んだ人は、いち早い整備を要求しました。

 その後はモノレールの開業や、津喜駅と星久喜を結ぶ津喜市営バスの運行開始などもあって地下鉄計画は忘れ去られていきました。しかし、計画自体が廃止されたわけではなく、用地はきちんと残されていたようです。

 2017年には星久喜付近の地下鉄用地を活用した新線「アーバンループ線」が開業したり、乗り入れる予定だった両得ベイコネクト線が津喜駅-津喜中央駅-都駅間の一部で地下鉄建設を想定したスペースを活用したりして、一部のみではありますが電車が走るようになりました。


※当ページの内容はフィクションです※

当ページ最終更新日 2022年12月25日

当ページ公開開始日 2022年05月15日