三倉部駅

2015年の夏の昼。三倉部に帰ってきた津喜県立三城高校2年の大原真菜(イラスト部)。

三倉部駅観察01

 「始発列車多数!!」

 三倉部駅近くの不動産物件には、こんな売り文句が必ず書かれているという。三倉部駅は実際に始発列車が多いが、そのほとんどは日中に運行されていることに注意しなければならない。

 三倉部駅は2面3線の駅で、西側が1面2線、東側が1面1線となっている。駅舎はホームの上にあり、西側から1~3番線となっている。日中は2番線が折り返し電車専用ホームとして使われるが、アーバンループ直通と若葉の森線直通を合計して7分30秒間隔で電車が折り返す。発車したらすぐ次の電車が入線する感じだ。一方、ラッシュ時は津喜方面に向かう各駅停車が急行を退避するためのホームとなる。

 駅前の道は古くからある道で、最近は改良が進み車道・路側帯・歩道共に広くなっているが、いまだに狭い箇所もある。中には車道以外のスペースが排水溝の蓋の上しかないところまである。しかも、朝はとても渋滞する。

 駅周辺はマンションが増えたものの、昔からある住宅や「鎮守の森」と呼ばれる三倉部神社・都我公園もある。都我公園は別名「森公園」と呼ばれており、地域住民の憩いの場となっている。その名の通り木々が密集している公園で、夕方になるとたくさんの子供たちが遊具で遊んだり、ベンチでゲーム対戦したりしている。

 駅の北には「鉄道カフェさくらべ」がある。小学校の北に隣接しており、建物は東西に細長い。駐車場から中を見ると、かつて津古線でも走っていた両得20系電車の姿を見ることができる。

 中に展示されている両得20系は、津古線で活躍していたころの仕様で展示されている。カフェで食事をした人は、中に入ることも可能だ。今では珍しくなった古い両得電車の中で、子供がはしゃいでいた。

 この店のオーナーは両得電鉄のOB。現役時代は運転士の指導を行うほど運転が上手い運転士だったという。2017年の7月に運転台の改造を行い、加減速の操作を行うと、それに応じて音が出るようにした。また、前にモニターを設置することで、津古線の運転シミュレーションもできるようになった。

 オーナーもたまに運転シミュレーションを楽しむことがあるが、お客さんに迷惑をかけてはならないと営業時間外に「テスト」と称して運転する。幕は「普通 古林」、列車番号もきちんと変更し、津喜駅を発車する。一度始めると、終点の古林まで運転する。ただ、古林に到着するまでは何十分も時間がかかるので、たまに行き先を「中沼」に設定することもあるとか(中沼には留置線がある)。

概要

 三倉部駅(さくらべえき)は、結急津古線の駅です。ホーム有効長は20m車が8両停車できる180mで、2面3線の構造となっています。線路は周囲よりも低い掘割の中に敷設されています。駅そのものは1915年からあります。当時三倉部地区は「都我村(後に都我町となり1937年に津喜市に吸収)」の中心地として、役場も置かれていました。駅は、当時の起点の旧津喜駅(現在の東津喜駅)から近いということで、一面一線のホームとなりました。当時は地上に線路が敷設されており、起点の東津喜駅の次の駅でした。坂を登りきったところにありました。

 その後、旅客・貨物輸送ともに需要が増えたことから、1922年には線路を増設してすれ違い可能なように作り変えました(相対式2面2線)。線路規格は引き続き丙線のままとされています。ホーム有効長さは当時100mで、すれ違い線は150mとされました。また、同時に電化されました。

 大きく設備改良される計画が出たのは、1950年代後半のことです。旧型国電を譲り受けた当時の両得電鉄。4両単位での運行を基本としていましたが、単線区間が多く設備の貧弱な津古線では、6両編成の運転に対応できる設備にしたほうがいいのではないかということで、まずホームが130mに延伸されました。当時は、駅舎が隣接する都我小学校(とがしょうがっこう)側にあり都我小学校側が1番線、反対側が2番線となっていました。

 現在の構造に作り変えられるきっかけとなったのは、1964年から建設が開始された津倉台団地(つくらだいだんち)ができた後、増える乗客に対応できるようにする計画がきっかけでした。当時の両得電鉄は、混雑の激しい津喜線や古林線、浦原線の地下鉄直通の準備に追われており、永京都心へ行かない津古線の設備改良ほ後回しになってしまいました。

(ちなみに、「津倉台」の由来は「津」喜と三「倉」部を合わせたことです)

 1965年ダイヤ改正では、当時の両得本線を追われた中型・小型電車が次々と津古線(当時は中沼に車両基地がありました)に転属してきました。1971年、草深検修区(現在の草深総合車両センター)が完成し、津古線の本格的な車両大型化が可能となりました。また同年には古林線車両である50系8両編成が津古線でも運用(2運用)されるようになったほか、マンション、ライト三倉部店(スーパー・ドラッグストア併設)ができたこと、さらに道が貧弱な三倉部地区の踏切が車の往来を妨げ、毎日渋滞していたことから近隣を含めて大幅な改良を行うことになりました。

 工事は1972年度から開始されました。2番線に隣接した土地を掘割として掘った後、まずは3番線ホームを建設しました。この際、3番線(上り)専用の仮設改札を設置し、1974年3月から使用開始しています。この際、上りホームと下りホームを行き来することが出来なくなったことから、入り間違えた人が反対側のホームに改札経由で行けるような扱いをしています。

 新上りホームの使用が開始された後は、一番線を引き続き使用しつつも、2番線のホームと線路を撤去してこちらも掘割を掘りました。1975年8月に工事が完了し、10月から新線路を電車が通るようになっています。なお、この時に新しい改札「北口」が地上と同じ高さの橋上改札口として開設されています。

 1975年10月からは、旧一番線と旧駅舎が解体され、1975年12月からは新しい一番線とメインストリートの道路に面している新駅舎(船橋法典駅の駅舎に似ているデザイン)の建設が進められました。掘割完成が1975年4月で、2番線と一番線ホーム拡張が1975年5月に完了しています。なお、北口側に4両分の仮設屋根が設けられていた2番線は、新しい屋根6両分を1975年5月に設置したあと、1975年6月後半頃に仮設屋根を外して新しい屋根を取り付けました。なお、線路の敷設もこの頃開始され、1975年7月に完成。1975年8月に現在と同じ構造の駅ができました。駅舎も同じ8月に完成しています。

 駅舎の前の部分は幅2mの歩道としました。工事期間中移設していたバス停も、駅の前に移設しました。(駅舎と反対側も線路の上部分は2mの車道とし、バス停を設置しています。)ホームは20m車8両が停車できる長さの170mとしましたが、2008年に20m車10連が停車できるよう210mの長さに延伸されました。

・当時は、ラッシュ時毎時8本(現在はラッシュ時間帯急行4本各停12本)

 ・バスは、両得バス津喜営業所の「津60系統」津喜駅東口〜国立津喜病院〜三倉部駅〜西津喜駅系統が30分に1本。 

・2019年度の乗降人員は、1万1507人。

・モノレール新三倉部駅の2019年度乗車人員は、4060人。

三倉部の地図

・三倉部駅ホームは20m車10両まで対応。西から1番線、2番線、3番線となる。

・都我小学校はかなり長い歴史を有する小学校である。

・駅から歩いて4分のところに、旧都我村役場跡がある。

・駅から都我公園の中を通って5分のところに、旧陸軍の気球連隊格納庫を活用した倉庫がある。


※当ページの内容はフィクションです。

当ページ最終更新日 2023年01月07日

当ページ公開開始日 2020年09月04日